優生学について


優生学には積極的優生と消極的優生に分れる。
積極的優生政策とは、劣った遺伝子を持った人間の生殖制限ではなく、優れた遺伝子を持った人間の生殖推進による、人類の遺伝的向上を進める考えである(何が優れていて、なにが劣っているかの基準には多くの議論がある)。
消極的優生政策は、劣った遺伝子を持った人間の生殖制限を行うことで、人類の遺伝的向上を進める政策である。

優生学自体は、ナチスが利用したとされているため、評判が芳しくないが、そのセオリー自体に科学的誤りがあるわけではない。ナチス優生学というよりも、レイシズムの科学的裏付けのために優生学を利用したのである。
米国の公民権運動以前までは、優生学自体がレイシズムと結びついてしまったため、優生学似非科学以外なにものでもなかったが、レイシズム以外は完全に正しい。
何故なら、優生学が誤りであるということは、人為選択の否定であるからだ。
人為選択とは、植物や動物の交配に人間が介入することで、特定の遺伝形質を強化又は発現させる行為である。
人為選択によって、雑草がトウモロコシに、狼が人に従順な犬になった。

同じ発想で、人間の生殖活動に上位者が介入することで、人間も種として特定の遺伝形質を強化することができるという考えが優生思想である。

したがって、そもそも生殖能力が無い又は生殖活動を行う可能性の無い人(重度の障碍者)を殺害した、やまゆり園の犯罪者植松聖による大虐殺は優生思想に基ずくものとは言い難い。

最終的に、植松聖は死刑宣告がなされたが、結果的にこの司法システム自体が優生学として機能していることを我々は理解するべきである。

歴史的にあらゆる地域で、暴力事件の発生数は減少している。
平成より昭和が、明治より江戸が、鎌倉よりも平安が、より暴力的だった。
なぜ、こうなったのかは、警察システムの整備が進むことで、どの時代も一貫して犯罪者は刑務所に入れられるか、殺害されてきた。
何千年とこの仕組みが続いたため、遺伝的に暴力的傾向のある人間は生殖活動ができず、子孫を残せなくなり、遺伝的に暴力的傾向を持った人間は着実と減少したのである。

犯罪者植松も、我が国に司法警察システムがあるため、野放しにならずにすんだ。
もし生きていたら、植松には複数人の彼女がいたというので、遺伝的に暴力的傾向のある子孫を残していた可能性がある。

というわけで、我々自身も結果的に優生学に基づいた、暴力的遺伝形質の排除を進める、警察システムのお陰で、安全な社会に生きているのである。