中抜きシステムの歴史

 

 

中抜きシステムの歴史は非常に長い

古くは古代ローマなどの徴税請負人にまでさかのぼれる。



 属州シチリアの総督ウェレスのもとで、徴税請負人アプロニウスがどのような利益を得たか、次のような例がある。前71年に総督ウェレスからレンティーニというポリスの小麦の「十分の1税」を21万6000モティエ(量の単位。1モディエは8.754リットル)で請け負い、レンティーニ人とは54万モディエを支払わせる契約を結んだ。この差額の32万4000モディエが「儲け分」である。その他、54万モディエの6%、すなわち3万2400モディエをそれに付加させ、さらにリベートとして3万モディエの小麦に相当する金額を受け取った。つまり38万6400モディエを手にしたわけである。ローマ人が1年に必要とする小麦の量がせいぜい40モディエであったから、この利益は莫大だった。現地オリンピックの人件費、委託時は日当20万円で計算→派遣会社の募集では日当1万2000円で募集の生産者がそれに従っていたのは、アプロニウスが「お前たちは脱税しようというのか」という恫喝があったからだ。<吉村忠典『古代ローマ帝国』1997 岩波新書 p.103>

 

この事例では中抜き率は64%にも達する。

古代ローマでは、官僚制が発達せづ、小さな政府であったため、こういった中抜き企業は蔓延ったのである。

 

現代日本に戻れば、SES事業においては、エンド企業発注人月単価が200万円の所が、最終的にエンジニアにわたる報酬が80万円という、中抜き率が60%という事例や

オリンピックの人件費、委託時は日当20万円で計算を派遣会社の募集では日当1万2000円で募集する95%中抜きという驚異的な事例も日本にあるので、歴史的な64%の中抜きの存在は驚くべきことではないのだろう。