圧倒的教養を身に着けたい

「教養があること」の必要条件は、知識があることです。これは誰でもわかることです。

 

では、「教養があること」の必要十分条件は何でしょうか?

私はこれを「現時点で役に立たない知識から役に立つ知識を創り出す能力を持つこと」と「他者に対する知識の共有」だと考えます。

知識は本質的には行動のために存在するのですが(ここでは行動を広い意味に捉え、内的思索も含めるものとします)。

ある知識の有用性をその知識が必要される事物が発生する前に把握することは不可能です。何故なら、人生での行動は無限大の可能性があります、簡単に言うと毎日10の行動オプションが選べる人がとり得る人生の可能性は、10の(360×残りの人生)乗であり、無限大に近いからです(数学的には間違いですが、無限の社会的な定義です)。

無限大の可能性があるため、全ての問題に対処するためには、無限大の知識が必要ですが、残念なことに人間の脳は有限です。

 

これを理解してきた古代の学者が生み出した対策が「教養」なのです。

有限大の知識で、全ての問題に対処するには、それぞれの知識に汎用性があり、最大公約数的に問題に対処できるようにする知識と、それぞれの知識の組み合わせで新しい知識を創ることのできる能力です。

前者が古典的知識、後者が思考力でありこの二つを合わせたものが「教養」です。

ここで重要なのは最大公約数的な知識は、特定の課題解決には適しない知識つまり一見役に立たない知識です。しかし、だからこそ、知識の組み合わせが重要なわけです。

 

しかしこれだけでは教養は成り立ちません。

「知識は力なり」と言ったように、知識は他者への働きかけの為にこそ存在し、教養の有無は他者から認めてもらうものです。

 

だからこそ、「教養」の必要十分条件は「現時点で役に立たない知識から役に立つ知識を創り出す能力を持つこと」と「他者に対する知識の共有」であると言えるのです。

 

ビジネス、政治、国家運営の共通点は不確実性と判断の可否の根拠となる情報の少なさです。

常に霧のなかで判断しなければならない。

そこで私は圧倒的な教養の獲得を志向するのです。