我々はなにを信じるべきなのか?

 

我々は何を信じるべきか という問いは、非常に重要である。これは、我々が如何に生きるべきかという問いに根底からかかわっているからである。これは、何を信じるかでどのようなアイデアを持つかが規定され、そのアイデアが自己の行動を紡ぎ、未来を描くからである。

如何に生きるかとは、何をすべきか ということである。 何事もなさない者の生き方など考える合理的必然性は無い。

つまり、何を信じるかで、何をすべきかが規定される。 視点を天に挙げれば、この国の国民が何を信じるかで、その国が何をすべきかが規定される。 この「信じる」という言葉はそのまま、「信仰する」と置き換えても問題ないだろう。この信仰心というものが、極めて重要であるという主張に疑問を呈する者がいるかもしれない。だがその考えは誤りである。信仰心に関する興味深い歴史がある。

北米大陸での初期入植者共同体において、信仰心が薄い共同体に比べ、信仰心が篤い共同体の方が、より持続したのである。これは、信仰心が篤い集団が生き延びるよう、人間が進化したという説を補強するものである。

 

信仰心が重要ならば、現代の我々は何を信じれば良いだろうか。これは個人のみならず国家にも共通する課題である。

科学が多数の宗教的事実を虚妄であること示した今、人生を神にゆだねる者は少ない。

今に始まったことではないが、宗教の世俗化も著しく、また宗教も乱立している。

そこで、宗教を信じることができなくなった者が科学を信じるという科学信仰という一種の宗教が世界を覆いつつある。この考えは分かりやすい例えだが、本質的とは言い難い。

そもそも、科学が宗教にとって代わったとは言い難いのである。

勿論、一般に宗教的事実より科学的事実が重んじられるようになったが、科学以外にも宗教的特徴を持ったシステムが世界を席巻しているからである。

これは、貨幣と国家権力である。

世界的に経済の貨幣化は貨幣誕生以後ゆっくりとしかし着実に進んだ。

ローマ帝国の崩壊はこの貨幣化の大停滞であるが、殆どの国家を形成するにいたった文明で貨幣またはそれに準ずるものが生まれている。

ここで、貨幣の宗教性について説明する。

殆どの貨幣は、本質的価値を持たず、その価値はそれを使用する集団の社会的合意つまり集団構成員各人の貨幣価値に対する信用に完全に依存している。これは宗教と全く同じ構図である。

多くの者に信じられれば常に成立し、信じる者が無くなれば消滅するのである。

歴史的に金等の貴金属が貨幣として使用されており、金には本質的な価値があると信じる者が存在したが、当時金の利用法は装飾品以外に無く、金でモノが買えるのは、モノが存在する場合のみである。労働力や天然資源、食料と違い無価値になる可能性を常に帯びているのである。

さらに、金本位制の終焉とともに現在の管理通貨制度が到来したが、これは現在存在する貨幣つまり通貨は紙幣とその借用証つまり預金等に過ぎないということである。(実際には借用証である通貨量の方が多いが当然借用証の信頼は紙幣の信頼に依存する)つまりほぼ紙切れだと言える。紙切れ同然の紙幣に信用を与えているのがその使用者の心理である。

だが、それだけでない。国家権力もその貨幣に力を与えているのである。これは、徴税権による裏づけが貨幣の信用に大きく影響を与えるからである。貨幣による徴税が行われれば、国民には貨幣を集める動機が生まれるからである。しかし、この考えには問題がある。

実際に国家が存在せずとも貨幣が流通する事態が多数存在するからである。たとえば、内戦中の無政府状態ソマリアにおける内戦前の独裁政権によって発行された紙幣の流通や、ビットコインを中心とする各種暗号通貨いわゆる仮想通貨である。

けれども、これらの事例は説明可能な現象である。

ソマリアの事例は通貨の管理者たる国家が存在せずとも貨幣が流通した事例であるが、管理者の非存在はすなわち発行者の非存在である。

発行者が存在しなくなったため、貨幣量は増大せず、貨幣の信頼は保たれたのである。また、内戦に伴う、脱貨幣経済化の影響も否定できないだろう。

暗号通貨は全くの無から生まれたのではあるが、実際にその価値はドルや円と交換可能であることから担保されているため、独立した通貨とは言えない。

ドルが金と交換できなくなった時、初めて全世界的な管理通貨制度が生まれたのと同様に、暗号通貨はそれが現行貨幣と交換不可能となった時にはじめて真の独立した貨幣となるだろう。

さらに国家権力も宗教的な権力と無縁ではない。

これは国家権力が宗教をその正当性に必用とするということではなく、国家権力は宗教と同様にその支配下にある国民の同意すなわち、その集団構成員の国家権力に対するある種の信仰が必要なのである。

この信仰は国民の大半が国家に対して服従するということで示されるもので、国民の大半が時の権力者の正当性を疑わないということではない。

この宗教的な信仰が失われた時、国家がいかに脆いかは歴史が示す。ルーマニアチャウシェスク政権の崩壊や、多くの革命が指し示している。

この国家権力は宗教と同程度に、歴史が古いものである。

 

上記事情を鑑みれば、宗教を信じられずとも、多くの者が国家権力を信じると同時に貨幣を宗教的に信仰しているのが、現状である。